ブラタモリごっこを戸越・大井町近辺でやってみた
きっかけは、先日「東京23区凸凹地図」を購入し、どこか散歩しようと思ったからなのだが、コロナ禍で遠出を避けるかわりに自宅近辺はかなり歩き尽くしていることから、少し自宅から離れたところにしようと思った。では、どのエリアがいいか?と考えたとき、公共交通機関を使わず、自宅近辺から自転車で往復してもそれほど時間がかからない隣接区のどこかを攻めてみようと思った。
勝手ながら、このエリアには昔からなんとなく愛着を持っている。いくつか理由があったのだが、中学校の時の通学ルート(の一つ)であったこと、また学生時代に暮れのシーズンになるとお歳暮配達のバイトをこのエリアでやっていたこと、などがある。また、一時的に目黒(住所は品川区)に住んでいたことがあり、行政手続きで品川区役所に行くことも何度かあった。というわけで、それほど深い理由でもないのだが、この辺りを散策してみようと決めた。ただし、散策といっても、実際の移動には自転車を使用している。
さて、今回のテーマ(何回続くのかは決めていないし、一度で終わってしまう可能性もゼロではないが・・・)は「暗渠(あんきょ)の古戸越川の源流アタック」と「立会川と並走する古代東海道をゆく」の2つ。
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暗渠の古戸越川の源流アタック
最初のテーマは、暗渠を辿りながら古戸越川の源流にたどり着くというもの。ちなみに先に言ってしまうと、古戸越川の源流は戸越公園の池(写真)。
下の地図でいうと、画像の左端の真ん中にあるのが戸越公園。ここにはかつて熊本藩細川家の下屋敷が存在し、そのお屋敷の中の庭園にあった池が古戸越川の水源となっていた。ただ、地形から察するに、それより前から自然河川として存在していた可能性が近い。ちょうど画像の下から右上に向かって蛇行するような低地は河川に沿って開かれた谷地田(谷津田)と見るのが自然。古戸越川のせせらぎを河川灌漑として利用して、田んぼが開かれたのではないかと推測。もともとは三ツ木通りを流れていた戸越川(本流)に向かってできた縣谷(けんこく)のようにも見える。
ちなみに、私は別に地学の専門家でもなんでもないので、単に想像(フォントが紫色部分)で言っているだけなので、悪しからず。
いずれにしても東京の城南地区にはよく見られる地形。
古戸越川は、源流のあった戸越公園から、現在は三ツ木通りとなっている谷へと流れ込んでいた。というわけでスタート地点は、三ツ木通りとの合流地点から。ちょうど佐川急便の配達員が入り込もうとしている細い路地。ここが古戸越川が三ツ木通りに流れ込んでいる合流地点にあたる暗渠。
円型のマンホールがいくつも続き、合流マークがついていることから、生活排水と雨水の両方が下水道として使われていることが分かる。ただ、この間の道にある下水道は、
下水道台帳には載っていない。私道だからだろうか。
少し歩みを進めて、下の地図の地点まで来ると、宅地が斜めになっていることが分かる。ここに沿って暗渠が。
さらに歩みを進める。怪しげな二段になった道路。この下段が暗渠道。当然、車は通れないが、人や自転車は通れる。
こんな道を通り抜けていく。写真は、そよかぜ公園を裏側から臨んだもの。
この暗渠を道なりに進んでいくと、暗渠の中の暗渠、といった蓋がされた道に繋がる。ただし、この蓋がされた道は行き止まりになる。
もう一つの見どころは、古戸越橋。こちらはかつて古戸越川を超える橋の欄干が、今はしながわ中央公園に移設されている。
この写真のところにかかっていた橋。
そして、今は都道420号線の工事中。暗渠は、この工事のために見れなくなってしまう。
もうすぐ源流の戸越公園のそば。最後の暗渠っぽい道。
着きました、戸越公園。
ちょっとブレイクお昼ご飯〜のんき通り商店街の名店・ペギー〜
さて、戸越公園に到着し、前半戦は終了。お腹が空いたので、横須賀線・西大井駅前の「のんき通り商店街」にある洋食屋さん、ペギーに。残念ながら平日の昼間のランチは選択肢がなく、カツカレーのみ、ということだが、美味しくいただいた。こちら、ご年配のマダムがお一人で切り盛りしている様子。コーヒーもつけてくれて、昔ながらの洋食屋さん。好きなジャンル。
立会川と並走する古代東海道をゆく
後半戦は、大井町線・荏原町駅そばの天明三年(1783年)銘石造道標からスタート。
荏原町駅前の商店街を進むと、
また今度は別の道標に出会う。天保二年銘道標。こちらは、品川道(古東海道)と先ほどの道標が示している道との境のところに立っている。品川道は、実は古代において、とても重要な道だった。というのも、そもそも現在一般的に東海道として知られている国道15号および1号は、古代の頃には東海道ではなかった。また江戸時代においても、家康は今の中原街道もしくは大山街道を使っていたと言われている。
そもそも古代の東海道とは、今の東京には繋がっておらず、もともとは三浦半島から房総半島に渡って常陸国に上がっていく道だったと言われている。一方、品川湊は武蔵国の国府津(外港の意味)として機能しており、国府であった現在の府中あたりから海運物を運ぶための道が必要となった。それが品川道の原型となっている。そして、東海道には、もう一つ相模から武蔵を抜けて下総に繋がるルートも出来上がった。この品川道が、その時に古東海道として使われていたと考えられている。
今回は、その品川道を品川湊(目黒川の河口付近)までたどってみた。
実際、このように道は狭いが、ひたすら尾根の一本道である。品川に向かって左側が立会川が流れていた谷。右側は、環七に落ちていく谷。
これが、立会川に落ちていく斜面。
こちらは、逆に環七側に落ちていく斜面。
道中、初代総理大臣・伊藤博文の墓所がある。実は、この辺りに伊藤博文の別宅があった。周りには伊藤という地名が残っており、伊藤小学校と伊藤中学校がある。伊藤中学校は、現在品川区の小中一貫校になっており、伊藤学園と名前を変えている。郷ひろみ、真田広之が卒業生らしい。
この品川道、大井町に近づくにつれて光学通りと呼ばれる。昔、ここにニコンの工場があったことから光学通りという名前になった。ニコンの工場は残念ながらなくなってしまったが、今でもニコンの立派な建物があり、大井町はニコンの城下町といった感じがある。
さて、そろそろ大井町駅に近くなってきた。この後の写真はないが、実はゼームス坂が、この尾根道から品川湊に下っていく最後のスロープ。商店街の間を走るこの細い道が、旧道になっている。上の写真はJR大井町駅に振り向いて撮った写真。昔は、この先に立会川がカーブを描いて流れており、古東海道は立会川を渡って、この道を通って、ゼームス坂に向かっていった。
ということで、今回のブラタモリごっこは、こちらで終了。次回をお楽しみに。次回があれば。